お薬が増えたものの、改善したかに思えたのは始めのうちだけ。
結局は余り眠れた感のない状態が続いていましたし、
イライラ感も募っていました。
そのうち、希死念慮が頭をもたげてくるようになったのです。
希死念慮とは
きし‐ねんりょ【希死念慮】
死にたいと願うこと。
[補説]自殺願望と同義ともされるが、疾病や人間関係などの解決しがたい問題から逃れるために死を選択しようとする状態を「自殺願望」、具体的な理由はないが漠然と死を願う状態を「希死念慮」と使い分けることがある。(デジタル大辞泉より)
↑ 希死念慮とはこのような状態をいいます。
もうね、日々過ごすこと自体がしんどくなってくるんですよ。
この頃の私は家に帰ることが嫌で仕事帰りにスーパーに延々と居たり、夕方にウオーキングに出たまま公園でブランコぎーごぎーこ漕いでたりしてました。
ノートへ書き連ねていることもこんな感じです。
【ノートより】
最近 芸能人の自死のニュースとか見ても「なんで?!」とか思わなくなったよ。
生きることだけが全てじゃないっつーか、そういうこともアリなのが人の人生だなと。
認めるわけじゃないけど、責められはしないな。
死神って フッとした隙間に入ってきちゃうもんなのかもしれない。
色々なことがたまたま重なって、そこにできた亀裂に“ 死 ”ってのが入り込んじゃったりするのかもしれない。
…そろそろ21時になる… スーパーも出るか…
色々なものを整理したいと思い始める
先に生命保険についての記事を書きましたが、あの頃、なぜ死亡保険金のことを考えたのかといえば、自分が居なくなったら…というように考えたからです。
部屋の片付けをしたい、自分の荷物も何も整頓しておきたい。
保険とか通帳とか 分かるようにしなきゃ… と、まるで終活のようなことを考えてました。
「死にたい」というより「消えたい」
「死んでしまいたい」 というよりは
「消えてしまいたい」 という気持ちでした。
現状からの逃避ですかね。
フッと消えてしまえたら、どんなにか楽だろうか、と。
私を踏み止まらせていたのは、とにかく子供達が社会人になるまでは、の一点でしたね。
逆に言えば、社会にまで出したら自分はどうなってもいいや、と思ってました。
自分自身の価値が見い出せない
「私は何のために今までやってきたのだろう」
「私ってなんなんだ?!」
と思い続けてました。
自分への価値を凄く卑下してしまうのです。
色々なものがことごとく否定されていくような感覚でした。
楽しいことも、やりたいこともない。
じゃあ 何のために私はいるの? と負のスパイラル思考にしかなりません。
そして溜め込んだ負の気持ちは歪んだ行動に向いていきました。